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(理論で説明できないのは、現実が間違っているからだと考える学者系)
学者系は、当然ながら経済学の枠組みでものを考えますから、理論的には最も精緻であり、エコノミスト系や市場系の人々に対して「理論的に考えずに経済を語っている」と批判します。この批判はあたっていますが、だからといって学者系の見通しが当たるとは限りません。現実の経済は経済学で説明できるほど単純ではないからです。
経済学は、現実の経済を単純化した「箱庭」のなかでモノを考えます。ニュートンが「引力や空気抵抗がなければ、投げたボールはまっすぐ飛んでいく」と述べたように、「取引のコストを考えなければ(売り手は妥当な値段さえ示せば買い手を容易に見つけることが出来、商品の輸送コストなどもかからないとすれば)・・・」というような仮定を数多く置いて考えるわけです。こうした考え方を「モデル」と呼びます。経済学には大きく分けて「ケインジアン(ケインズ派)」と「非ケインジアン」があります。ケインズは大恐慌を目の前にして、失業を減らすにはどうしたらよいかを考えるところから出発しましたから、どちらかと言えばケインジアンは現実を直視していますが、その分だけ純粋理論的には問題を抱えているといえましょう。一方で非ケインジアンは、理論的な精緻さを重視していますから、学者同士の論争では有利に立つことが多いようで、最近ではケインジアンよりも勢力が優勢になっているようです。
非ケインジアンは、「人々は合理的に行動する。したがって、不景気で失業が増えれば失業者は賃金の安い仕事を探すだろう。賃金が下がれば雇ってくれる会社が見つかるだろうから、失業問題などというものは瞬間的に解決するはずのものだ」と考えます。彼らにとっては、「政府が無用な規制さえしなければ、神の見えざる手が経済を好ましい姿に導く」という考え方が基本中の基本だというわけです。小泉内閣の「骨太の方針」は学者系の考え方が色濃く出ているもので、たとえば「ヒトと資本が効率性の低い部門から効率性の高い部門や必要とされる部門へ移動することが重要で、その障害となるモノがあれば、それを取り除く」ということが基本理念として謳われているわけです。障害物さえ取り除けば日本経済が実力に相応しい発展を遂げるに違いないという発想が根本にあるわけです。
かつて、「円高になると輸出産業が潰れて失業者が増えるから円高は困る」という議論をしていたときに、高名な学者が「失業した人は輸出産業以外の産業に雇われいくから問題はありません」と言い切っていたのが印象に残っています。
理論を推し進めると、「人々が合理的ならば失業問題は生じない。失業問題が生じるのは人々が合理的に行動しないからであって、これは現実が誤っているということを示すものだ」ということになるでしょう。極論すると学者系とは、そういう発想をする人々なのです。
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